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浅川伯教・巧兄弟資料館ブログ

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「銀河塾」開催のお知らせ

毎年恒例の「清里銀河塾」を6月2日(土)〜4日(月)の日程で開催いたします。清里銀河塾では、大正時代に朝鮮半島に渡り、朝鮮の自然と芸術を愛し、市井の人々の間に溶け込んで友情を築いた浅川巧の生き方について学びます。そして、韓国・中国など東アジアの留学生との意見交換会を通して、未来の隣国関係の在り方について共に考えます。(詳細は下記チラシ参照)

〆切 5月10日(木)
定員30名(先着順)
お問い合わせ 浅川伯教・巧兄弟資料館
TEL . 0551-42-1447
E-mail asakawa-muse@city.hokuto.yamanashi.jp 

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(画像をクリックするとチラシが拡大できます)



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# by asakawabrothers | 2018-04-07 09:43 | Comments(0)

青少年読書感想文全国コンクール

浅川巧の半生を描いた小説『白磁の人』(江宮隆之著)の読書感想文を書いた田園調布学園高等部の儘田怜実さん(1年)が、青少年読書感想文全国コンクールで内閣総理大臣賞(高等学校の部)を受賞されました。(掲載記事:毎日新聞 2018年2月9日)

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青少年読書感想文全国コンクール 
第63回高等学校の部 最優秀作品
「白磁の人になる」 東京都・田園調布学園高等部 1年 儘田怜実

 日本が韓国を併合中、朝鮮人は母語である朝鮮語ではなく、日本語を話すよう強制されたり、朝鮮人というだけで日本軍から差別的な暴言を吐かれ、嫌がらせを受けたりした。そのため、朝鮮人は日本人を憎んでいた。しかし、こうした状況下にも関わらず、朝鮮人から厚く慕われ、愛されたのが、主人公の浅川巧という人物だった。この浅川こそが「白磁の人」である。私はこの本の題名を初めて見た時、純白の磁器という意味の言葉である「白磁」に例えられた人とは、一体どのような人なのだろうと思った。また、「白磁」に込められている意味が何か気になった。

 浅川は、朝鮮にいる兄からの手紙の「朝鮮には不思議な温かさのある焼き物があり、それを見ると、無性にお前に会いたくなる。」という言葉に惹かれ、自ら朝鮮に渡る。この手紙の中の焼き物が、李朝白磁であり、浅川と白磁との最初の出会いだった。今でこそ白磁の評価は高いものの、当時の朝鮮では、随分前から評価の定まっていた高麗青磁に比べ、白磁は安価でどこでも手に入るものであった。だが、浅川は、価値が全くないと世間が見向きもしない白磁の美しさに一目ぼれし、白磁の世界にのめりこんでいく。

 一般に、人は、自分の見る目だけでは自信が持てずに、大勢の人の評価を気にしてしまいがちである。私も、自分は良いと思うものでも、人から否定されると、自分の主張に自信を持てなくなり、他人の意見に流されてしまうことがある。だが、浅川は違った。世間の評価よりも、自分の感性や気持ちを信じて、白磁を世に広めることが出来た。このような信念を持って行動できる彼を、私は尊敬する。独自の感性で、白磁の美しさを素晴らしいものだと見出だしたように、浅川には、偏見を持たず、物事を新鮮な目で見て、感じ、扱うという姿勢があった。

 白磁とは、浅川の言葉を借りると、穏やかな膨らみを持ち、本当に温かみのある人肌のような焼き物である。では浅川が称された「白磁の人」とは、どんな人か。浅川は、初対面の人にも微笑みを絶やさず、自然な温かさと穏和な表情で接するような人であった。植物も鳥も焼き物も含めて全てが自然界の一員であり、友であるとした。対象がどんなものでも平等に接する浅川の人柄が、朝鮮人の心を開き、日本人を憎んでいた朝鮮人からも厚く信頼されることになったのだと思う。浅川のように、そこにいて見つめているだけでも、心の柔らかさや温かみを感じられるような人のことを、信頼と尊敬する気持ちを込めて、「白磁の人」と呼んだのだろう。

 白磁へ情熱を注ぐ一方で、浅川は、以前地元の林業署で働いていたことを生かして、荒れ果ててしまっていた朝鮮の山を、緑に戻す仕事も行うことになった。なぜ山を緑にすることにも魅力を感じたのか。それは、山の緑の美しさを回復することと白磁の美への追究が、美への強いこだわりという共通点でつながっていたからだと思う。彼は、この二つの仕事を一生の仕事として、朝鮮人になりきって、やりきることを決意した。私は、その意志の強さにも感銘を受けた。彼の強い意志は、朝鮮語を覚え、朝鮮の民族衣装であるチョゴリ・パジを身にまとって朝鮮人の社会に溶け込み、目標を達成させるためには努力を惜しまなかった姿勢にも表れている。

 最も印象に残った言葉がある。浅川の人柄に影響を与えたと考えられ、浅川がまだ幼い頃に祖父に言われた次の言葉である。

「いいか、巧。人間の仕事に貴賤などない。人種などというものにも上下はない。人の価値はな、どう生きたか、にあって地位や金銭ではどうにもならん。働いて、本を読んで、自然を大事にする。それだけのことだ。」

誕生する前に父を亡くした浅川にとって、祖父の存在は大きなものだったと思われる。この祖父を浅川は慕い、似ているとよく言われていた。人種や国に関係なく、人々がより良い生き方をし、自然を大切にして共存していく。このような考え方が、浅川の生き方の原点だった。

 浅川のように、国境を越えてどんな人に対しても平等に接することは、きっと簡単なことではなく、実際に出来ている人は、大人でも少ないのではないだろうか。しかし、偏見や先入観を持たず、誰に対しても分け隔てなく接すれば、きっと信頼される人になれ、自分の心も穏やかになると思う。また、自分のやりたいことを見つけ、突き進んだ浅川の姿を、私はうらやましく思った。彼のように一生をかけて打ち込めるものを、私も見つけたい。そのためにも、自分の感性を信じて磨いていき、物事の本質を見極められる目を養っていきたい。そして、浅川のように、見つけた夢を実現するために、辛いことがあってもくじけずに乗り越えたい。


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# by asakawabrothers | 2018-03-21 08:26 | Comments(0)

新刊『浅川伯教 朝鮮古陶磁論集』

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新刊『浅川伯教 朝鮮古陶磁論集』が刊行されました(1巻・2巻)。

浅川伯教(あさかわ・のりたか)は大正時代に朝鮮に渡り、700ヶ所以上の窯跡を調査・研究し、朝鮮古陶磁の歴史と編年研究の基礎を築きました。朝鮮陶磁や工芸に関する論考や講演録、雑誌「白樺」や「工芸」への寄稿文、随筆、詩・短歌などが収録されています。2冊セットで3,600円。

当資料館の他、東京の日本民藝館でもお求め頂けます。
電話で注文・発送も賜ります。
問い合わせは:0551-42-1447
asakawa-muse@city.hokuto.yamanashi.jp

目次
1集 
論考「李朝陶器の価値及び変遷に就いて」等13篇
講演「李朝陶器の歴史」等5篇
随想「木喰さんに就いて」「朝鮮のお茶等」12篇
追悼文「鈍翁の立体的趣味道」等4篇

2集
朝鮮古陶史料大展覧会
高麗青磁私考
李朝の陶磁
朝鮮李朝
朝鮮現在の窯業
李朝~染付・鉄砂・白磁~
詩歌
解題
年譜

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# by asakawabrothers | 2018-03-07 11:54 | Comments(0)

柳宗悦と浅川巧

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 (写真:左から、巧、柳、伯教、ウォーナー夫人、鶏龍山の窯跡にて)

「将来蒐集された夫等の工芸品を見て悦んでくれる人が出るなら、何事よりも君の努力に感謝していいいのだ。或ものは古道具屋の、暗い片隅から君の眼によって引きぬかれてきたのだ。或ものは山奥の民家から、君の背に負はれてはるばる運ばれてきたのだ。或ものは生活にいる金を忘れて迄、支払はれた品なのだ。云はば、君が生みの母だ。」(浅川巧著『朝鮮の膳』跋、柳宗悦)

 これは、柳宗悦が1936年に開設した「日本民藝館」の前身となる京城(現ソウル)の「朝鮮民族美術館」の設立(1924年)における巧の役割について書いた文章である。
 柳宗悦は、1914年に伯教が手土産に贈った染付秋草文面取壺がきっかけで朝鮮の工芸の美に惹かれるようになり、その後、巧とも親交を深め、柳はしばしば京城にある巧の家を訪ねるようになる。後に、「京城の阿峴里にあった巧さんの家に泊めてもらつた時から朝鮮の民芸の美へ大きく眼を開いた」と語っている。
 柳宗悦の初めての伝記を書いた哲学者の鶴見俊輔は、「柳宗悦の民芸運動は朝鮮の日常雑器によってひらかれた眼を、日本に転じるところからうまれた。日本の民芸運動の誕生の機縁となったこのむすびつきをつくった人に、柳の友人としての浅川伯教、巧兄弟があった」と書いている。
 柳の「民芸(民衆の工芸)運動」は、朝鮮の無名の工人たちが作った日常の雑器の中に美しいものがあることに気づくことから出発している。これは、当時の美術館が、主に貴族や王族が使っていたような技巧を凝らした工芸品に価値を置いていた時代において、画期的なことであった。
 柳が巧に惹かれたのは、巧の朝鮮の民芸に対する情愛と知識のためだけではなく、朝鮮の市井の人々との間に築いていた関係の在り方にも感銘を受けたからである。
 それは、柳の朝鮮との向き合い方に大きい影響を与えた。1919年に起きた3.1独立運動の日本による弾圧を機に、柳は新聞や雑誌などで朝鮮に対する日本の植民地政策を批判するようになる。
「軍国主義を早く放棄しよう…自らの自由を尊重すると共に他人の自由を尊重しよう。若しもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだらう。さうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして、日本ではないか」(『朝鮮とその藝術』序)
「吾々の国が正しい人道を踏んでいない」(「讀賣新聞」1919年5月20〜24日連載)
 また、柳は、日本が朝鮮を併合し「同化政策」を実施する中、朝鮮を日本とは別の一つの国(民族文化)として尊重することを軍国主義下の日本でやめることはなかった。3.1独立運動の弾圧に衝撃を受けた柳は、このままでは朝鮮で育まれてきた美しい文化が消えてしまうことを危惧し、巧の後押しもあり、朝鮮の人々の日常で使われている工芸品を集めて後世に残すことを目的とした「朝鮮民族美術館」の設立を決意する。
 鶴見は、時事問題に敏感に反応する人ではなかった柳が、こういった考え方・行動を取ったことについてこのように書いている。「それは、柳にとって抽象的な正義の主張ではなかった。柳としたしい浅川伯教・巧兄弟への敬愛、浅川兄弟を通して知り得た朝鮮人への敬愛からわきでた自然の感情にうらうちされた思想である」(『柳宗悦全集・著作篇・第六巻・朝鮮とその芸術』、「解説・失われた転機」鶴見俊輔)
 巧は、「初め朝鮮に来た頃、朝鮮の人たちに対して済まない気がして、何度か日本に帰ることを計画しました」と柳に話していた。やがて、朝鮮の市井の人たちとの交流を深めることから、自分が朝鮮に残ることで朝鮮の人たちの役に立てることはないか、と考えるようになった。
 巧が、他の日本人に疎まれながらも、朝鮮服を着て街を歩き、朝鮮の山林や工芸の保全に一生を捧げ、40年という短い生涯の大部分を朝鮮の人たちに寄り添いながら生きたことと、柳が軍国主義下の日本で朝鮮に対する態度を変えることがなかったことは、共にこの「自然の感情にうらうちされた思想」に基づいて生きていたからではないだろうか。


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# by asakawabrothers | 2018-02-03 21:31 | Comments(0)

本を読む晩年の伯教

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本を読む晩年の伯教(撮影:次女・上杉美恵子宅)


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# by asakawabrothers | 2017-11-28 21:00 | Comments(0)