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浅川伯教・巧兄弟資料館ブログ

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本を読む晩年の伯教

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本を読む晩年の伯教(撮影:次女・上杉美恵子宅)


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# by asakawabrothers | 2017-11-28 21:00 | Comments(0)

【「日記」に見える浅川巧の視座 ④】

「朝鮮服を着てね(略)電車に腰かけていると、「ヨボ(朝鮮人に対する蔑称)、どけ」なんて席を立たされると、黙ってどいて席にかけさせました。」(浅川巧の姉・小宮山栄の証言 「朝鮮の土となった日本人」高崎宗司著)

 大正3年(1914年)に朝鮮に渡った巧は、日本による朝鮮の植民地支配の現状に衝撃を受けていた。当時、朝鮮の人たちは土地を奪われ、日本語を話すように強制され、日本人による差別も常態化していた。そんな中、巧は「朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人にすまない気がして、何度か国に帰ることを計画しました」(柳宗悦「彼の朝鮮行」1920年)と親友の柳宗悦に話していた。民族差別の激しかった時代に、巧には虐げられている人たちの立場になって考えられる想像力があった。

 朝鮮の人々の暮らしや文化に敬愛の念を抱いていた巧は、朝鮮語を学び、朝鮮人の友人たちと食事や酒を共にし、白い朝鮮服を着て街を歩いた。そのため、街中では朝鮮人に間違われて、他の日本人から差別的態度をとられることは少なかくなかった。「僕でさへ朝鮮服の時は時々侮蔑をうけていやな思ひをするのだもの」(1923年9月10日)と日記に綴っているように、巧は朝鮮服を着ることによって、日頃から朝鮮の人たちが日本人から受けている扱いを「体験」していた。

 「朝鮮服の用いられないのは変だと思ふ。軽快な点に於いて優美な点に於いて洋服に譲らないと思ふ」(1922年5月7日)というように、巧は朝鮮服の美と機能性を好み愛用していた。しかし同時に、朝鮮服を着て街を歩くことは、日本政府と大衆に対する静かな問いかけであり、また、虐げられていた朝鮮の人たちの横にそっと寄り添う行為であったのかもしれない。



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# by asakawabrothers | 2017-11-23 22:20 | Comments(0)

【「日記」に見える浅川巧の視座 ③】

「世界は出来るだけ広くしてゆつくり住むに限る。牧師にもなりたくない。画家にも小説家にも詩人にも百姓にも商人にも大工にも遊人にもなりたくない。然し、随時説教もする、描きたい時は絵も描く、逆上してきたら詩人の真似もする、食えなくなつたら商人にもなる、百姓もしたり、大工桶屋の仕事もやつて見たい。」

浅川巧出、浅川政歳宛 書簡(「工藝」1934年3月号。「亡き巧君の事」)秋田営林署時代(1910~14年)の書簡 

 友人・浅川政歳に宛てたこの手紙の一節から、巧は何事にも囚われない「自由」な感覚の持ち主であったことがわかる。 
 巧が生涯もっとも長く従事していた職業は林業であったが、詩や芸術を愛し、朝鮮の陶磁器や工芸について研究・執筆活動も行っていた。クリスチャンであったため、友人や身近な人々にキリストの教えを説くこともあった。 
 「科学も宗教も工芸も道は一つなのだ」と考えていた巧は、職業だけではなく、「美」の追求やその信仰においても、「垣根」を設けることがなかった。それは、人との関わり方についても同じであり、「自分達の生活する世界を地理的に限り交わるべき友を血族や約束によって定めるべきではない」と、一貫している。 
 巧は「専門家」になることの危うさをこう指摘している。「学者の寝言ばかり気にして自然の力を知らない者の多いのにうんざりする。彼らは仕事よりも自分によく解せない様の屁理屈を有難がつている。卓上技師と名付けて遣る。」 
 巧は、従来の林業の常識に囚われることなく、自然をよく観察し、自然の状態に近い育苗により朝鮮半島在来のチョウセンゴヨウなどの安定的な植林を可能にした「露天埋蔵法」を確立するなど、林業の分野で大きな功績を残している。 
 日本統治下に行われた乱伐などによって禿山と化した「朝鮮の山を青くすること」と、朝鮮の工芸や美しい雑器を愛で、研究し、後世に残す取り組みは巧にとって地続きであったのかもしれない。



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# by asakawabrothers | 2017-11-18 10:27 | Comments(0)

【「日記」に見える浅川巧の視座 ②】

「日本は大東京を誇り軍備を鼻にかけ万世一系を自慢することは少し謹むべきだと思ふ。」(大正12年9月10日の日記より)

【時代背景】

 1923年9月1日に起きた関東大震災から10日後の日記である。南関東をM7.9の大地震が襲った直後、「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人の一団が東京に来襲してくる」などといった流言飛語が飛び交った。警察は信憑性を検証することなく、流言を拡散する役割を担った。その結果、各地で市民が結成した自警団、軍や警察により、数千人の朝鮮人が虐殺された。 

 警視庁が震災の2年後にまとめた報告書『大正大震火災誌』(1925年)では、「震災に依りて、多大の不安に襲はれたる民衆は、ほとんど同時に、また流言蜚語に依りて(略)鮮人の暴動など言へるもの即ちそれなり」とした上で、結果的に「鮮人に対して猛烈なる迫害を加へ」るに至ったしている。また、司法省が作成した報告書『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書』(『現代史資料(6) 』所収、 1973年)では、「不逞鮮人」による暴動の噂について「一定の計画の下に脈絡ある非行を為したる事跡を認め難し」という結論を出している。

 当時、多くの日本人が流言を信じた背景には、日本が朝鮮を武力によって占領し、日ごろから日本人が朝鮮の人を差別し、正しく付き合っていなかったために恨みを抱かれているという不安があった。虐殺行為は、その「不安」の裏返しであったといえよう。

 巧は「軍備を鼻にかけ」て、自国優越思想と皇国史観に囚われた日本の政府と大衆が起こした「惨劇」を嘆き、日記の中で批判している。

「一体日本人は朝鮮人を人間扱ひしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。(中略)そんなに朝鮮人が悪い者だと思ひ込んだ日本人も随分根性がよくない。よくよく呪はれた人間だ。自分は彼等の前に朝鮮人の弁護をするために行き度い気が切にする。」


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# by asakawabrothers | 2017-08-13 19:30 | Comments(0)

「種蒔く人」


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「浅川巧の生涯」が、高校の英語の教科書で紹介されました。三友社出版の「COSMOS English Communication II」です。

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浅川巧が紹介された章の題名は「A Sower」(「種蒔く人」)です。
植民地時代、日本による乱伐によって禿山となっていた朝鮮の山々の緑化に生涯を捧げた浅川巧は「山に樹木の種を蒔いただけでなく、韓国と日本の『友情』の種も蒔いたのである」(日本語訳)、という一節が印象的でした。

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三友社出版の英語の教科書シリーズには、私たち現代人が直面している社会問題や環境問題に関するテーマが多く、英語習得の教材としてはもちろん、例文の内容もとても読み応えがあります。
高校英語教科書「COSMOS English Communication II」は、2017年2月に文部科学省検定を合格しています。

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# by asakawabrothers | 2017-06-21 23:21 | Comments(0)